表現者6月号(掲載予定:抜粋)

「住民投票」という悪夢

京都大学大学院教授 藤井聡 

政治は子供の遊び場ではない

本誌読者なら周知の真実であろうが「住民投票は素晴らしい」という言説は、単なる質の悪いデマにしか過ぎない。

そもそも、政治というものはそれが経済であれ戦争であれ何であれ、人々の将来の生き様、死に様を規定するものであり、その根幹にあるのは「判断」だ。

そしてそれが「判断」である以上は、そこには「良し悪し」というものがある。

だから、人は考える。そして人々と熟議する。

当たり前だ。

しかも政治の場合は、その良し悪しの振れ幅が巨大なものとなる。悪い場合には、人が一人や二人死ぬだけでは済まされない。何万、何十万という命が失われることもあれば、地域全体、国全体が滅んでしまうこともある。

つまりハンナアーレントが言うように、「政治は子供の遊び場ではない」のだ。

だからまっとうな良識を携えた人々は誰もが、政治における判断に際しては、とりわけ慎重になる。

少年マンガと政治の区別がつかない大人たち

しかし驚くべき事に、以上の話を理解できない人々が、つまり、「子供の遊び場」と「政治」との区別がついていない人々が、この世には存在している。

言うまでも無く、その区別がついていなければ、政治に関わるあらゆる判断が全て「お遊び」「おふざけ」になってしまう。

もちろん、そういう人々が一部に限られるなら問題はさして深刻ではない。

しかし残念な事にこの度行われた「大阪都構想をめぐる住民投票」では、子供の遊び場と政治との区別が何らついていない大量の言説が飛び交った。

例えば、その典型的なものとして、次のようなものがあった。

 

「彼(橋下氏)が発する「甘言」はすべて嘘だと思っている。それでも、『東京には負けへんで!』という大阪人の心をくすぐる、彼の攻めの姿勢には賭けてみたい。」

 

つまりこの論者は、橋下氏が言う話は「全て嘘」だと断じているのだが、驚くべき事に、それでもなお橋下氏に「賭けてみたい」とのたまっているのだ。

ではなぜ賭けてみたいのかと言えば、橋下氏の「攻めの姿勢」には心がくすぐられるからだそうだ。「全て嘘」ならこの論者が認識している橋下氏の「攻めの姿勢」なるものも「嘘」だと思っても良さそうなのだが、それだけは「嘘」だとは思っていないらしい。

嘘で塗り固められた「攻めの姿勢」に賭ける――つまり彼は、詐欺師の詐欺を詐欺と知りながらそれでもなおその詐欺師の詐欺に賭けると言っているわけだ。

これはもう「狂気」でしかない。

しかも、彼の言説はさらに次の様に続けられる。つまり彼はその「狂気」を「フロンティア精神」と呼び換え、それこそが「大阪の活気の源であると信じたい」と言い切り、最後に大阪市の有権者たちに次のように呼びかけている。

 

「大阪都構想、やってみなはれ」

 

この関西弁は「びびってないで、とっととやれっ!」という挑発のニュアンスを明確に含んでいる。つまりこの一連の発言は、(コラムニスト小田嶋隆氏が指摘したような)少年向けのマンガで登場する「なんだかよくわかんねえけど、とにかくやるんだよ!」という、全てを気合いで済まそうとする「ヤンキー」(不良:小田嶋氏のコラムから引用)の振る舞いを評価し、推奨するものなのだ。

“都”の前には”未知”がある 小田嶋 隆|日経ビジネスオンライン

わざわざ言うのも面倒だが、「ヤンキー」は「ヤンキー」であって政治とは無関係だ。「ヤンキー」が「ヤンキー」として政治を動かしだせば、我々は四六時中隣国と戦争したり「でっかい夢」をおいかけて世界の7つの海を冒険させられたりするようになるだろう。馬鹿馬鹿しい。

こんな馬鹿馬鹿しい話を、どこかの個人がネットのブログやツイッターでつぶやいているだけなら、黙って見過ごすこともできる。

しかし以上の主張は、日本の五大新聞の一つである産経新聞が立ち上げたインターネットジャーナルiRONNAにて、都構想の投票直前に大々的に組まれた『大阪都構想、やってみなはれ』というタイトルの特集でなされたものなのだ。そして上記の言説は全て、当該特集で最も目立つところに掲載されたジャーナル編集長白岩賢太氏のイントロ記事のものなのである。

つまり、大阪出身者でもあるこの白岩編集長は、政治と子供の遊び場との違い、為政者とヤンキーの違いがついていないのであり、その感覚のままネットジャーナルの特集号を編集し、配信したわけだ。

公器としてのマスメディアの編集長の言説がこの体たらくである以上、あとは推して図るべし。ありとあらゆるところであらゆる論者が「子供の遊び場と政治」との区別をつけないままに、「ヤンキーのノリ」で都構想についての発言を垂れ流し続けたのである。

もちろん中には、そういうノリで発言される内容を真に受けて都構想の実現が大阪の未来のために必要なのだろうと素朴に考えていた方々がおられたのかも知れない。しかしそうした人々のみならず、「デマをデマと知りながら、面白がって賛成していた」という、この白岩氏のような「確信犯」もまた、明確かつ大量に潜んでいたやに思えるのである。

重大な政治判断を「ヤンキー精神」の影響下にさらす

5月17日、「大阪都構想」の住民投票が行われ、都構想は反対多数で否決された。結果、大阪市は廃止は免れ、その存続が決められた。

これは、都構想という狂気に対して、ギリギリのところで正気が打ち勝ったと解釈することも、つまり政治とマンガの区別をつけぬふざけきった大人達の狂気に対して、政治と子供の遊び場との間の区別を理解し、「より良き判断」「慎重な判断」を目指す正気が打ち勝った、と考えることもできるかもしれない。

ただし、賛否の票差は0.8%に過ぎなかったのであり、したがってわずかな条件が変われば逆に可決されていた可能性は十分にあった。だから今回、理性のかけらも無い「ヤンキー精神」の影響を受けつつ大阪市がもう二度と戻らない形に破壊されていたかもしれなかったわけである。いわば今回は単に「たまたま助かった」というだけの話に過ぎないわけだ。

都構想が否決された今、「この事実」に思いが至っていない方は多かろうと思う。しかしだからこそ今、我々は「この事実」に思いを至らせねばならない。「この事実」に思いが至りさえすれば、「直接住民投票に法的権限を付与する」ということが、如何に恐ろしいものであるかが明白になるからだ。

もちろんそれが冷静な判断であるのなら、なんら問題はない。しかし繰り返すが、都構想推進論者の中には、先に紹介したような確信犯的な「ヤンキー精神」に基づいて「なんだかわかんねぇけど、でっけぇことやんだよ!」なノリ一発で「都構想」を推進していた人々が紛れ込んでいたのだ。したがってこの度の大阪の住民投票は、「大阪市の自治権」という現在の大阪市民のみならず、子供や孫を含めた子々孫々の大阪人達が自分の身を守るために貴重な「権利」をぶっ壊すかどうかを、後先考えずに「でっけぇことやんだよ!」という気合い一発の「ヤンキー精神」に少なからず影響された人々に委ねたことを意味しているのである(もちろん、全く影響されていない方々もおられたのも事実だろうが、そういう人々が「含まれていた」ことは否定しがたいのだ)。

 

(中略)

 

人気投票や住民投票など、いくらやってもかまわない。AKBの総選挙など他愛なきものだ。しかし、その投票結果に対して、「崇高なる政治的決定権」を軽々しく付与してはならぬのである。インフラ整備問題にせよ沖縄の基地問題にせよ、住民投票に政治的決定権を付与した途端、その投票結果を党利党略に基づいて操作するために、今回の橋下維新の様にプロパガンダやデマゴギーに巨額の政党助成金がつぎ込まれ、「ヤンキー精神」をはじめとしたあらゆる非理性的な精神によって政治的決定が支配されてしまいかねなくなるからだ。

今回はたまたま首の皮一枚で強大な公権力と巨額資金に基づく暴力的なデマゴギーとプロパガンダと言論テロルが勝利を納めることを回避できたが、次はもうそれができぬと覚悟を決めておかねばならない。

だからこそ、重大な政治決定を「住民投票」に委ねるか否かは、決して軽々しく決定してはならず、この上なき慎重さでもって判断せねばならないのである。

~以上、「住民投票という悪夢」より抜粋