新刊『デモクラシーの毒』について、橋下氏の各種所行を引用しつつ解説しました(「おわりに」から抜粋)|藤井 聡

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新刊『デモクラシーの毒』について、橋下氏の各種所行を引用しつつ解説しました(「おわりに」から抜粋)

適菜さんとの共著「デモクラシーの毒」が正式に発売となり、書店でも並び始めました。

本書で論じている「毒」とは一体どういうものか―――それは、次の一言に集約されます。

 『デモクラシーにウソを掛け合わせれば、猛毒が立ち上るのである。』

だからこそ、政治家のウソを放置してはならないのです。

にも関わらず、現代日本ではそれが野放しになっています。そうした実態を橋下徹氏の各種所行を引用しつつ、本書の『おわりに』で解説いたしています。

ついては本書のご紹介までに、「おわりに」から抜粋した文章、下記にご紹介差し上げます。

是非、下記ご一読ください。

~~~~ 『おわりに』 より抜粋 ~~~~

 現代人は、デモクラシー=民主主義と聞けば、掛け値無しに「とにかく善いもの」と思い込んでいる。「どこかで勝手に選ばれた専制的な暴君」よりも、「自分たちで選んだリーダー」にやってもらう政治の方が、自分たちにとって悪い事は少なく、良いことをたくさんしてくれるに違いない、と素朴に思い込んでいる。

 しかし、そんな言説は単なる「デマ」だ。

 「平然と上手なウソをつく」ずる賢い政治家なら、彼こそが他の政治家をさしおいてデモクラシー=民主主義によって、リーダーに選ばれてしまうからだ。史上最悪の独裁者と目されているヒトラーがデモクラシー=民主主義で選ばれたように、デモクラシー=民主主義は、「ウソをつくことだけが上手な詐欺師の様な単なる暴君」が政治権力を掌握することを正当化し、産み出すものでもあるのだ。

 だからデモクラシーが正常に機能するためには、「ウソをつく政治家は絶対に許さない」という気質が世間に充満していなければならない。

 さもなければ、そのデモクラシーは、猛毒を発する恐ろしい政治制度に豹変するのだ。「デモクラシー×ウソ」は「毒」なのである。だからこそ、他ならぬ政治家は「ウソつき」であってはならないのである。

 しかし残念ながら、今の日本にはそんな緊張感はほとんど無くなってしまったようである――。

 例えば、橋下徹氏は、平成27年の5月のいわゆる「大阪都構想」の住民投票運動の際、「住民投票は何度もやるもんじゃない、一回限り」と大阪市長として言明し、テレビやチラシで「大阪を変えるラストチャンス」というキャッチフレーズを大々的に繰り返して賛成投票を煽りに煽っていた。

 ところが――住民投票で否決されてから三ヶ月後には、「橋下維新」は「大阪都構想」への「再挑戦は我々の使命」と言明し、(来るべく大阪市長・知事選にて)公約に掲げて再挑戦することを宣言した。要するに、橋下氏が煽り文句として使い倒していた「これがラスト!」という言説が真っ赤なウソだという事を、すなわちそれは、「ラストチャンス詐欺」「閉店セール詐欺」に過ぎぬものだったという事を橋下氏達が自ら認めてしまったのである。

 ところが驚くべきことに、そのウソを非難する声は、世の趨勢には至らなかった。

 テレビやラジオでそのウソを声高に非難するコメンテーターや解説者達はほとんど見当たらない。それどころか、数少ない橋下氏の「ラストチャンス詐欺」に対する非難は、大衆の批判に晒されるという事態も生じている。

(中略)

 つまりわが国には、「政治家のウソの何が悪いんだ?」というノリが明確に存在するのである。

 そもそも、橋下氏は、彼が出版した書籍の中で「政治家を志す動機付けが権力欲、名誉欲でもいいじゃないか!….ウソをつけないヤツは政治家と弁護士になれないよ!嘘つきは政治家と弁護士のはじまりなのっ!」(『まっとう勝負』)と言明していた。もちろんこれはこれで深刻な問題なのだが、より深刻なのは、それを許す、あるいは「歓迎」すらする国民がいることなのだ。例えば、あるメディア関係者(iRONNA編集長、白岩賢太)は、「彼(橋下氏)が発する「甘言」はすべて嘘だと思っている。それでも…(中略)…彼の攻めの姿勢には賭けてみたい」と、橋下氏のウソをつく姿勢を「攻めの姿勢」と肯定的にすら評価しているのだ。

 これはつまり、今日のわが国の政治的土壌は、デモクラシーを持ち込めば、猛毒をまき散らし始める、そんな腐敗した土壌に堕してしまっていることを示している。繰り返すが、デモクラシーにウソを掛け合わせれば、猛毒が立ち上るのである。

 しかしそれにも関わらず、多くの国民にその深刻な状況にほとんど気づいておらず、無邪気にデモクラシー礼賛を続けている――。

 筆者は、こうした状況それ自体が、深刻な危機であると感じている。そして本書の共著者である適菜収氏もまた、そうした危機感を共有している限られた言論人の一人である。

 本書はそうした危機感の下、様々なテーマを二人で論じあったものである。本書を読めばもう二度と、「民主主義的であればそれでいい」だの、「多数決で決めさえすればそれでいい」だのという世迷い言を言わなくても済むようになるのではないかと思う。だからこそ、筆者は、本書が一人でも多くの国民に届くことを心から祈念している。

 そもそも、デモクラシー=民主主義から最良の果実を得ることができるのは、その「毒」を十分に理解した者だけなのである。