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佐々木氏の「協定書・軽視」のご発言に、学術倫理の視点から抗議いたします。

それともう一点、この佐々木論文で、「少なくも学者を看板にしてものを言い、書く場合、正しい根拠を示すことは倫理として初歩的なこと」の視点から、佐々木氏の言説には、その「倫理として初歩的なこと」が欠けている点がある旨、申し添えておきたいと思います。

佐々木氏は、こう述べます。

「こうした大きな背景を有する大阪都構想だが、藤井氏の都構想の理解は府と市の事務、財源、職員、財産移管などの振り分け、約束事を書き込んだ「特別区設置協定書」に記述された契約内容を大阪都構想と理解し、それに基づいて全てを説明しようとしている。

この協定書は大都市地域特別区設置法で要求する法律上義務付けられた書類であり、大阪市を廃止した際、府に移管するものと特別区に移管するものを振り分ける法的契約書に止まる。ねらいを含め大都市ビジョンを構想する中での都区制度移行の手段部分を抜き出して語っているに過ぎず、大阪大都市構想の本質からずれている。大きな誤解であり間違いだ。」

皆様、特に大阪市の皆様、このような学者の発言を、放置していてよいものでしょうか?

私は、この発言は、佐々木氏には「倫理として初歩的なこと」が欠けている発言にしか思えません。

佐々木氏は確かに行政学の専門家かもしれませんが、(政治学や政治哲学を持ち出すまでもなく)「一般社会人」としての常識をどの程度おもちなのかと、疑わざるを得ません。

確かに「協定書」は、現在、職業的な学者をしておられる佐々木氏の目からみれば、

  「大きな背景を有するもので、協定書の内容はさして重要ではない、
   重要なんは、その背景の考え方だ」

とお感じになるのだと思いますが、それは、新自由主義者と呼ばれる方々がその典型ですが、「自説を試したい」という、学者が陥りがちな不道徳であると、筆者は常々考えています(それは、佐々木氏に対してのみ感ずることではありません)。

考えてみてください。

協定書が通れば、大阪市民は、その協定書に書かれたことに制約を受けつつ、設計される行政の仕組みの中で、生きていかなければならないのです。

その大阪市民の立場に立ってみたとき、「協定書なんて、さして意味がない。重要なのは、背景のビジョンだ」と本当に言えるのでしょうか?

もちろん、背景ビジョンは重要です。しかし、生身の人間の暮らしを考えた時、協定書は、極めて重要であることは、自明としかいいようの無いことです。

例えば、家を建てるとき、佐々木氏は、ビジョンを大工さんに言うだけ言って、後は設計図も何も見ず、大工さんの腕前すら頓着せず、「ビジョンが大事だ」「設計図や大工の腕前の様な、個別具体的な話しはどうでもいい」と言ってのけることができるのでしょうか? (←当たり前ですが、出来るはずがないですよね)

したがって、私は、こういう学者の態度には、断固反対します。

我々学者には、重大な責任があることを、忘れてはならないのです。いい加減な言説をもっともらしく述べたてる学者の仮面をかぶった真の学者あらざるもの達のせいで、我々は、デフレから脱却できず、地方は創生できず、災害で多くの人々の命が失われ続けていることを、私たちは断じて忘れてはなりません。

繰り返します。

佐々木氏のこの「具体的な協定書の中身を軽視する態度」には、佐々木氏がおっしゃる「倫理として初歩的」な視点から、断固として、反対を申し述べておきたいと思います。

(※ 本FBコメントは、先のコメントと合わせて、佐々木氏からの反論への再反論は完了済み! の一角としてご認識頂けると幸いです)

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42669
http://news.livedoor.com/article/detail/9943827/